私が初めて教会を訪れたのは、1989年のことでした。自分から神様を知りたいと
いう思いからではなく、ただ、人に誘われてやってきました。初めて訪れた教会の印象は、
「パワフルなご婦人がたくさんいらっしゃるところだなあ。」というものでした。初めて
お会いする人たちばかりですが、ご婦人方の「よくいらっしゃいました。感謝、感謝。」
という歓迎が印象に残っています。
それから17年経ちましたが、今、私は神様を信じています。神様の何を信じているの
かということを考えると3つのことが挙げられると思います。
・ 私は神様に愛されている。
・ 私のような者のためにもイエス様は十字架に架かり、その命を投げ出してくださ
って、私は赦される者になった。
・ イエス様が今も私と共におられ、守ってくださる。
神様は、積極的な思いでなく教会を訪れた私を信じるものに変えてくださったのです。
礼拝に出席する中、お祈りすることや教会の中だけで語られる言葉使いについて、最初
は違和感を覚えました。でも、礼拝の中で賛美を歌うことは楽しくもあり解放される時で
した。礼拝に出席する回数を重ねる中で、イエス様のことや聖書に対する理解は深まって
行きましたが、信じることがなかなか出来ませんでした。今となっては何を躊躇していた
のかと思いますが、その時は一歩を踏み出すことが出来ませんでした。
そんな時、教会員の方が教えてくださいました。「神様のことを理解して信じようとす
るのは難しい。でも、理解できなくても、信じることは出来る。また、あなたは変わる
必要がない、今のままで良い。もし変わる必要があれば、神様が変えてくださる。」この
ことを聞いて自分の心が少しやわらかくされたように感じました。
初めて教会を訪れて2年経った1991年に妻と共に洗礼を受けました。そしてクリス
チャンとしての生活が始まりましたが、自分自身大きな問題を感じていました。それは、
神様に愛され、罪赦されていること、神様が共にいてくださることの実感がないというこ
とでした。頭では分かっていましたし、喜びも感じてはいたのですが、確かな実感がなか
ったのです。ですから、聖書を読むことも、礼拝に出席することも、どこか義務的なもの
となっていました。
そのような中、私に大きな波が押し寄せて来ました。妻を急な病気で失うという経験で
した。思いもよらない突然の出来事に呆然としていました。また、自分の力ではどうする
こともできない現実に直面し、無力さを思い知らされました。悲しみが心の中を満たし、
暫くの間辛く苦しいときを過ごしました。一刻も早くこの苦しさが過ぎ去るようにと願い
ました。そして、苦しさの中で「あなたの助けが必要です。」と心からイエス様を呼び求
めた時に、実感できなかったものが実感できるようになっていったのでした。辛さの中で
心からイエス様を呼び求めた時に、「私は愛され、赦されている。私と共にいてくださる。」
ということを実感できるようになったのです。自分の力でなくイエス様の力に頼る、ゆだ
ねて歩むということを教えられたのでした。
これから先も、辛く苦しい出来事に出会うことがあるかもしれません。しかし、わたし
のすべてを愛し赦しを与えてくださるイエス様と共に歩むとき、私の歩みは確かなものと
されることを信じます。また、イエス様が共にいてくださることを実感して歩むことは何
にも代えがたい喜びであると感じています。
「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」詩篇46:1
