
41歳の男性です。洗礼を受けたのが2年前、39歳の時です。
それまでは、イエス・キリストのことも、教会も、一切関わりはありませんでした。
もちろん、家族にもクリスチャンはいません。
聖書というと、会社の後輩・同僚の結婚式でホテルの教会に行き、少し出会う程度。
仕事で出張に行くことがあります。ホテルの部屋に聖書がありますよね。
あるのは分かっていますが、ほとんど読んだことはありません。1回くらいページをめくったことはあったかも。
20代から30代は、仕事中心の生活でした。
夜は、取引先の顧客との飲食、同僚との「飲みにケーション」。
多くのサラリーマンがそうであるように、土日も仕事にのめりこみ、
振り返ると、会社の「階段」を一気に登ってきたという印象です。
それなりに充実もしていましたし、手ごたえもありました。
いわゆる「出世」というやつも順調でした。
順調に思えた生活も、どこかでバランスを崩していたんですね。
どうも仕事の意欲が湧いてこない、仕事にいくのが億劫になってくる、仕事に集中できない。
気持ちと頭と体がバラバラで、もがいても自分ではどうしようもない状態。
部下との関係も悪くなり、なぜかイライラと当たってしまう。
なぜ、こうなるのか?原因はまったく分かりません。
「生きる」意欲もなくなり、「死んでしまったほうが楽かなあ」とまで考える始末です。
バランスを崩していたというのは、「仕事」にだけのめりこむ結果、仕事以外に、自分を成り立たせて
いるものがなかったんですね。
仕事がうまくいかなければ、自分が生きている意味もない、と考えてしまう短絡さ。
そういう状態の私に、イエス様は働きかけてくださったのです。
そのように悩んでいた時にイエス様は1冊の本を通して働きかけてくださいました。。
それはビジネス書でした。「最高の上司になるシンプルな方法」。
アメリカの企業コンサルタントの本です。
サブタイトルは『イエスのEメール』。。
第1パートがマタイ7章3〜5節「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。
自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。」
部下にイライラを感じる前に、自分の心に問いかけたか?
自分の至らなさに目を向けずに、他人への不満ばかり言っていないか?
第2パートがマルコ9章35節「そこでイエスはすわって12弟子をよび、そして言われた。
『だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない。』」
部下を自分に従わせようとばかり考えていた自分。
それが当然という思い上がり。
ショックを受けました。言葉が心に突き刺さりました。自分の考えと反対のことが書かれていました。
自分の思うように動いてくれないことに対してイライラばかりしていた自分。
自分は正しいことをしているはずなのに、なぜうまくいかないんだ?という疑問。
しかし、すべては原因は私の中にあったのです。「傲慢」になっていたのですね。
ここまでやってこれたのは、自分が頑張ったから、自分に能力があったから、
自分なら当然できるはず・・・、全て自分が自分がだったんですね。
多くのことが与えられていたのに気づかない、感謝しない。
人の立場にたたず、自分の都合ばかりを考える。
自己中心。
どこかバランスがおかしかったのだと思います。
神様の御旨に従っていない「罪」。肉的な感情の支配。
そのような出会いを経て、その後、教会の扉をたたきました。
教会に行くのは初めてでした。それから2年半。
最初はぎこちなかった信仰生活も、今では、生活の基盤になっています。
心に痛みを感じた聖書の御言葉は、今では、毎夜心の平安を与えてくれる神様のメッセージになっています。
古い自分、罪人であった自分は簡単には消え去りません。
しかし、肉的な自分が出てきたときは、その夜の祈りの中で、イエス・キリストの十字架に贖いを求めています。
「悔い改め」と「祈り」。また、何事もなかったような日でも、こう祈っています。
「主の御心から外れた行いをしていたのなら、どうか私に気づかせてください。」
今、会社では人事の仕事をしています。
社員が生き生きと仕事をし、社会人としてビジネスパーソンとして健全な成長を実現してもらいたい。
神様から教えられた真理の言葉を、現実の仕事の中でどのように生かしていくか、
そういうことを考えながら仕事をしています。まだまだ不十分ですが。
でも、仕事のもつ意味を再定義できたこと、自分のためではなく、人のために仕事をしようと思えたこと、
これらは神様からいただいた賜物です。
ようこそ教会へ、戻る。

